江部賢一ファンクラブ(私設)

ギターの名編曲者、江部賢一さんの仕事を、記録します。

武満徹は、何処でシャンソンを聴いたのか ⑤

番外編で、武満徹を取り上げています。

音楽との「決定的な出会い」の場所について。

 本人の文章です。

 

 

「私の中の日本人―ある見習士官など」抜粋

(前半略)

終戦間近い夏の日のことをお話ししたいと思います。

 あの頃私は、埼玉県の陸軍基地で働いていました。勤労のあいまには、軍歌とそのたぐいの歌をむやみと大声で、兵隊と一緒にうたっていました。軍歌の文語体の詞の意味などは殆ど理解してはいなかったのですが。ただ、その頃には、私たちにも戦局の深刻な様相というものが本能的に感じとれるようになっていました。空襲は熾烈になり、私たちは一年も親許を離れ、電気も点かぬ半地下壕のような体裁の宿舎に押しこめられ、日夜、本土決戦に備えての作業に携わっていたのです。山中に新しい自動車路を切り拓くのですが、素手同然の器材と、肉体的に未熟な私たちには、それは途方もなく異常な事態に思われました。それを、おとなが当然のように私たちに強いたことが、いっそう暗い気分に私たちを陥れました。

 そんな環境のなかで、私はある一つの「歌」を聞いたのです。(中略)それは、日本が、うたうことと聞くことを禁じていた「歌」であったのです。基地には一般の将校及び兵のほかに、学業半ばに徴兵された見習士官がいました。その一人が、手回しの蓄音機で、私たちに聴かせたものです。

(中略)

 終戦間近い夜に聞いた「歌」は、ジョセフィン・ベーカーのうたった有名なシャンソンであることを、戦後しばらくしてから知りました。

(後略)

 (初出 『波』1976年12月号)

『音楽の余白から』新潮社(1980年)所収

 

 

武満徹―私の紙ピアノ」抜粋

 戦争中、アメリカ軍の上陸に備えて、日本軍は山奥に基地を建設していました。私は14歳で、同じ年齢の子供たちと一緒にその工事現場で働いていました。皆は東京から疎開して、兵営で暮らしていました。とてもつらい日々でした。当時は西欧的なものをことごとく禁じていました。英語、音楽⋯⋯。禁じられたとなると、我々子供たちにとってそれはしなくてはならないことになり、軍人の鼻先で英語をしゃべったものです。みんなは罰を受け、殴られました。

 でも全部の兵隊が乱暴だったわけではありません。ある日のこと、一人の見習士官が私たちを宿舎のすこし奥まった場所に連れて行きました。そこには蓄音機が一台と数枚のレコードがありました。針がないので、彼は竹を削りました。そして一枚のレコードをかけました。それはフランスのシャンソンで、ジョセフィン・ベーカーの「パルレ・モワ・ダムール」でした。何というショックだったでしょう!初めて私は西洋音楽を聴き、その音楽が存在するということを自覚したのです。

(フランスの雑誌のインタヴュー記事を日本語に翻訳したもの)

『音楽の余白から』新潮社(1980年)所収

 

 

「私の受けた音楽教育」抜粋

 私は戦争中、中学生で陸軍糧秣廠というところに一年半ばかりいました。

 泊まり込みで、勤労動員といっていたのですが、埼玉県の山奥に食糧倉庫、食糧基地が作ってありました。陸軍のもくろみとしては本土決戦に備えた食糧の貯蔵所というわけですが、山の中に道もつくり、種々の食糧品、その中には航空兵のための秘密食糧などもありましたが、それを運んだりしていたのです。

 終戦の年の八月の初めのことでした。そのころ私たちはほとんど兵隊と同じような生活をさせられていました。(中略)その基地に学徒動員で学業半ばに徴集された見習士官の人たちが来ていたわけです。そのひとりがある時、手持ちの蓄音機でわれわれ学生に音楽を聴かせてくれました。

 それは、当時、私たちが接していた音楽というものと、まるで違うものだったのです。(中略)いま思えばフランスのシャンソンで、「パルレ・モア・ダムール」(聞かせてよ、愛のことば)という歌でした。ジョセフィン・ベーカーという人がそれを歌っていましたが、それは私にとっては初めて知った、軍歌とはまるで別の、しかも甘美な音楽でありました。

 それを聴いて、こんな素晴らしい音楽がこの世にあったのかと思いました。そのことが終戦になってからも忘れられなくて、音楽に自分の関心が集中してきました。

 『音楽を呼びさますもの』新潮社(1985年)所収