番外編で武満徹を取り上げています。
『武満徹の世界 オリジナル・サウンドトラック』CDのライナーノートに、インタビューが掲載されています。
内容は、立花隆さんの『武満徹・音楽創造への旅』(2016年)と同じです。立花さんのインタビュー(1992年頃)より制作時に近いため、語り口が生き生きとしています。
『武満徹の世界』の原盤は、『日本の映画音楽/武満徹の世界』LP(東宝レコード 1979年)。
『不良少年』は、昭和36年(1961年)3月29日封切、岩波映画。
『武満徹の世界 オリジナル・サウンドトラック』CD(ポリスター 1999年)
ライナーノートより(レコード発売当時の原稿を使用)
インタビュー
(映画音楽を一つの音楽ジャンルとして意識されたのはいつからですか)
『不良少年』からです。それまではどういう風に書いていいのかよく解(わか)らなかった。それまで映画音楽的なステロタイプ(固定概念)はいつも頭にあって、やっぱり、それに近く書こうということはあった。
羽仁さんと仕事をして、はじめて、そういうことから離れて書けるようになり、映画音楽が非常に独自な音楽の世界だと思うようになった。とても、いい勉強になったわけです。
あの映画は、非常に変わった撮り方をしてて、ほとんどスクリプト(台本)なしで始めた⋯⋯久里浜の少年院にずっとロケーションしたんだけどスタッフが近所に泊り込んで⋯⋯羽仁さんは毎日、少年院に行って、いろんな少年たちと話したりしているうちに、だんだん出来てきて⋯⋯だから、ぼくも、しょっちゅう撮影現場に立ち会ったわけなんです。
あれは事実ではなく、フィクションの世界だけど、ドキュメンタルな撮り方で、編集もまったく自由なやり方でやったんです。そうしたら、最初考えてたテーマと違うことになっちゃったりね。あとから台詞をはめ変えたりした。
音楽を書いて録音したら、これが羽仁監督の気に入らなかった。
ぼくのほうが内容に対して観念的になってて、暗く、重い音楽を書いちゃったんですよ。そしたら、音楽を採り終ってミキシングに入る前にスタッフ全員集めてね、土本さんという助監督さん⋯⋯後で、水俣の映画を撮った人ですけど⋯⋯が進行役になって、一つ一つ画に音楽を合わせて、賛成か反対かってやったんです。
ぼくは、もう、ものすごく怒ったわけね。なんたることだって。こんなところにまで、民主主義を持ち込むのは良くないって⋯。
スタッフの人の中には、ぼくの音楽に賛成してくれる人がいたけど、羽仁さんは絶対手を挙げないんですね。すると、一票反対があるから、これは保留しましょうってことになる。
ぼくは、あなたみたいなわがままなおぼっちゃん監督とは付き合えないからって、スタジオを飛び出してしまった。そしたら、それまでものすごくいい天気だったのが一転俄にかき曇って、豪雨になったんですよ。かっこよく飛び出したんだけど、外へ出られないわけ。
そしたら、土本さんがきて、今日は新宿に宿を取りましたんで、羽仁さんと枕を並べて、私が真ん中に入って寝ますからって⋯⋯。まあ、土本さんて方はとてもいい人でねえ。それで一晩、ずい分話をしましたよ。
それで羽仁さんの演出の意図っていうのがよく解って、7~8ロールは書き直しました。ずい分、間を置いて採り直して、出来上ったのを見たら、やっぱり、羽仁さんの云ってたことの方が正しかったことがよく解りました。
それからですね、映画っていうのが面白いなと思うようになったのは。
このCDに収録されているのは、「〇と△のうた」です。
『不良少年』の「〇と△のうた」 について
ぼくは、映画に、よく歌を入れることがあるんです。この歌は、監督の注文ではなく、毎日、ロケ地の久里浜の少年院へ通っている時にね、ま、少年が働いたりしている時に鼻唄でも歌わせようと思ってね、電車の中で歌詞を考え、作曲して、その日に歌わせた。ひところは流行って有線放送などで歌われたもんです。
(1979年5月)