江部賢一ファンクラブ(私設)

ギターの名編曲者、江部賢一さんの仕事を、記録します。

武満徹は、何処でシャンソンを聴いたのか ③

番外編で、武満徹を取り上げています。

音楽との「決定的な出会い」の場所について。

本人の文章です。

 

 

「暗い河の流れに」

 私は中学生のとき勤労動員で、ほぼ一年にわたって埼玉県の陸軍基地で働いていた。そこはアメリカの本土上陸にそなえて建設された食糧基地であった。私たち学生の宿舎は山奥の木立ちの茂みの中にある、半地下壕のような体裁のものであった。電気もなく、冬は宿舎の土間に焚火(たきび)でもしなければ寒さに耐えられず、夏はまるでむろのように饐(す)えた。私たちは兵隊と同じように、寝具である毛布の整頓が悪いというようなことで下士官から殴打された。時には、理由もなく数キロの山道を軍歌演習をしながら駈けさせられた。

(中略)

 そんな環境のなかで、私はある一つの〈歌〉を聞いた。そして、それは軍歌や当時の他のうたのようにしいられたものではなかった。

 基地には、数人の学業半ばに徴兵された見習士官がいた。真夏の午後、兵隊に命ぜられて数人の学生が黒い雄牛を屠殺した。その事件で、私たちはどうしようもなくたかぶりながらも、なぜか黙ったまま半地下壕の宿舎に閉じこもっていた。夜、一人の見習士官が手回しの蓄音機をさげて学生の宿舎へたずねて来た。彼はうつむきながらなにかを語り、1枚のレコードをかけた。

 それは、私にとってひとつの決定的な出会いであった。その時、私の心は他の学生たちとおなじように、おおうことのできない空洞であり、ただその歌がしみこむにまかせていた。あの時、私たちはけっしてその歌を意志的に聞こうとしていたのではなかった。そして歌はまた、ただ静かに大きな流れのように私たちの肉体へそそがれたのだ。

(中略)

 私があのとき聞いた歌は、絶対にジョセフィン・ベーカーのシャンソンでなければならなかったが、私はそれと出会ったことで、もう昨日の私ではなかったし、その歌もすがたを変えてしまったのだ。

 『樹の鏡、草原の鏡』武満徹 新潮社(1975年)

 

これは、①で草柳大蔵さんも引用していた文章です。

「雄牛を屠殺」の経緯は不明ですが、『白い道』(『宝石』1960年3月号)という小説の題材に使われています。『武満徹の世界』集英社(1997年)に所収。