番外編で、武満徹を取り上げています。
音楽との「決定的な出会い」の場所について。補足です。
飯能町双柳(なみやなぎ)辺りにあった糧秣廠に、武蔵野鉄道元加治(もとかじ)駅から荷物を運搬していたらしい、という資料を⑥に掲載しました。現在の新光地区の名前も出ていました。
軍用地は、戦後、工場や開拓入植地に使われることがあったようです。新光地区も入植地でした。何か関係があるのでしょうか。
開拓の碑 飯能新光(埼玉県飯能市・入間市) (fc2.com)
『武満徹・音楽創造への旅』(立花隆 文藝春秋 2016年)は、武満さんの評伝として最も詳細なものです。1992年頃のインタビューがもとになっています。勤労動員の様子も書かれています。
(立花 食糧基地というのは、具体的にはどういうものなんですか。)
飯能の山奥の森の中に大きな倉庫を作って、そこに芝浦の倉庫から食料をどんどん運びこむわけです。米とか乾パン、金平糖、羊カンなんかもありました。日本酒にチェリーという煙草。それに航空糧食とか、秘密糧食とか。食べると眠気がぜんぜんなくなって、丸一日は寝ないでいられるという覚醒剤入りの食糧もありました。そういう倉庫を作ったり、道路を作ったり、食糧が着いたというと、駅までそれを取りに行って、運搬したりという仕事です。
(立花 それは泊まり込みでやるんですか。)
ええ。倉庫の間に、半地下壕式のバラックを作って、その床の間に、毛布だけでダーッと二列になって寝るんです。
(立花 [決定的な方向づけを与えたのは]どういう曲だったんですか。)
リュシエンヌ・ボワイエというフランスのシャンソン歌手の『パルレ・モア・ダムール(私に愛を語って)』というシャンソンでした。(中略)[ジョセフィン・ベーカーと間違っていたので]ここで訂正しておきます。
(立花 それ一曲だけですか。)
一曲だけです。そんなもの聴いているのがバレたら、あとでものすごく叱られますからね。音も小さくして、電気もないところで、みんな蓄音機をとりかこむように集って、息をひそめて、それ一曲だけ聞いたんです。(中略)
(立花 そんなに強烈だったんですか。)
ええ、強烈でしたね。ショックでした。(中略)
(立花 そういう音楽的感動というのは、これが最初になるわけですか。)
これが最初です。これ以前に音楽に心をゆさぶられたという経験は一度もありません。そして、これだけで、戦争が終ったら音楽をやろうと心に決めてしまったんです。決定的な体験でした。
終戦後のことも書かれています。
秘密糧食(覚醒剤が入ったもの)なんていうものがあったので、処分しなきゃならなかったんですね。終戦の日に、そういうものは全部燃やせという指令がきて、夜中まで穴を掘って、油をかけて、どんどん燃やしました。
(中略)
(立花 すぐ東京に戻れたんですか。)
いえ、その食糧基地を進駐軍に引き渡すまでちゃんと管理しておかなければならないわけです。そのためにぼくらはずっと残らされていたんです。しかし、あの混乱期、あの食糧不足の時代ですから、毎日のようにいろんな人たちが食糧基地を襲ってきました。
(中略)[食糧は使い物にならないようなものだったが、兵隊達は応戦する。]
その渦中にいるんだから怖かったですよ。
(中略)[軍紀も乱れ、兵隊も逃げ出したり、食糧を運び出したりしていた。]
結局、進駐軍がやってきたときに残っていたのは、ほとんどが勤労動員の学生でした。進駐軍は、ジープ一台に三・四人でやってきて、あっという間に残っていた兵隊の武装を解除して、ぼくらにはチューインガムをくれました。
(中略)[ガムは食糧倉庫にもあったが実にまずいものだった。]
リグレーのチューインガムはその何十倍もうまかった。ぼくらはそれを食べながら、『これにゃ負けてもしょうがねえや』といいあいました。
(中略)
(立花 八月に終戦で、二カ月ほど埼玉にいて、十月ごろ東京に戻ってくるわけですね。)
蓄音機とレコードは誰のものだったのか、は不明です。
国内の任地とはいえ、見習士官が持参することは、ないだろうと思います。
戦前の飯能は、川越・所沢に次ぐ繁栄だったそうです。現地にあったものを入手したのかも知れません。
糧秣廠への運搬に使われていたという元加治駅ですが、かつては、引き込み線や貨物ホームがあったそうです。川砂利や木材のためのもの。糧秣廠の貨物にも使われたのでしょうか。
1930年生まれの少年が、1930年のフランスの歌と、15年の時を隔てて、飯能の山中で出会ったのでした。縁とは不思議なものです。