江部賢一ファンクラブ(私設)

ギターの名編曲者、江部賢一さんの仕事を、記録します。

武満徹は、何処でシャンソンを聴いたのか ⑥

番外編で、武満徹を取り上げています。

音楽との「決定的な出会い」の場所について。

 

飯能側の資料を探してみました。

 

第4回 飯能ご当地検定  (検定日 平成29年8月27日)

出題番号54

昭和19年、現在の新光地区一帯(入間市分含む)にあった糧秣廠(りょうまつしょう)に学徒勤労動員され、後に世界的な作曲家になった人物は誰か。

(1)武満 徹  (2)中田喜直  (3)滝廉太郎  (4)弘田竜太郎

解答(1)

解説より

京華中学生・武満徹は、昭和19年から糧秣敞と元加治(もとかじ)駅間を物資運びのため、学徒勤労動員された。ある日、見習士官が手回しの蓄音機を持ってきて、禁止されていたシャンソン「パレル・モア・ダムール」(私に愛を語って)を聞かせてくれたという。その音に神の啓示を受け、戦後作曲家となった。

 

この問いの出典は、次の記事です。見開きの随筆から、抜粋を引用します。

 

武満徹と飯能」浅見徳男(『飯能ペン』第6号 1997年2月28日発行)

 ここでは、(中略)武満音楽を語ろうというのではなく、彼と音楽との出会いが、この飯能の地であったということを記そうというのである。

 

 昭和19年、太平洋戦争は日本の敗戦色濃く、本土決戦まで現実のものとなりつつあった。当時 武満14歳、東京の京華(けいか)中学2年に在籍していたが、すでに授業どころではなく、生徒は勤労動員に明け暮れする日々であった。

 そんなある日の動員先が、平地林の鬱蒼と広がる飯能町双柳(なみやなぎ)であったという。そこに何か所もつくられていた陸軍の糧秣廠(軍の食糧保管倉庫)へ、武蔵野鉄道元加治(もとかじ)駅から食料品を運ぶのが彼等の仕事であった。

 飯能丘陵が東へ伸びて、平松辺で平地に没する。その麓から広がる林が、入間川河岸段丘まで続いており、この地域のほとんどが双柳地区である。敵の戦闘機から身をかくすにも、倉庫が見つけられないためにも格好の場所であったのであろう。

 家庭を離れ、知らない土地で寝泊まりしながらの作業は、少年たちにとってかなり辛いものであったろう。そのようなある日、武満にとって決定的ともいえる音楽体験が訪れた。

 仕事に疲れて、からだを休めていた少年たちの宿舎へ、一人の見習士官が手回しの蓄音機を下げて尋ねてきた。そして、1枚のレコードを聞かせてくれたという。それは、シャンソン「パルレ・モア・ダムール」(私に愛を語って)という曲であった。西洋音楽は敵性音楽として、禁じられていたときのことである。その新鮮な響きが、電流のように彼の身体を走ったらしい。

(中略)このようにして、武満と音楽の出会いが、閑寂な飯能の平地林で起こった。そして、戦後一念発起した彼は、ほとんど独学で作曲家としての基礎を養っていったらしい。

 昭和25年12月、20歳の武満は、新作曲派協会 第7回作品発表会で、ピアノのための《2つのレント》という作品を、初めて世に問うことになる。演奏したのは藤田晴子であった。

 藤田は異色のピアニストで、当時 東大法学部政治学科の学生であった。そして、この藤田も飯能とかかわりがあり、この演奏の2年前、昭和23年11月7日に飯能第一小学校の音楽室で演奏会を開いている。

 

武蔵野鉄道は現在の西武池袋線東飯能駅八高線と接続します。八高線松久駅児玉郡)に繋がります。

浅見徳男さんは、郷土館の元館長。郷土館は2020年から飯能市立博物館になりました。

『飯能ペン』は、飯能ペンクラブ発行の文芸雑誌。1991年から2012年にかけて20号まで発行されたようです。

 

浅見さんの随筆では、「双柳(なみやなぎ)」となっています。

飯能ご当地検定では、「新光地区一帯(入間市分含む)」となっているので、他にも資料があるのかも知れません。「新光」は、昭和25年に設けられた大字です。

 

武満徹が、シャンソンを聴いたのは、双柳~新光の辺りのようです。

「今昔マップ」で見ると、昔は松林が広がっていた場所です。

 

 

聞かせてよ愛の言葉を( Parlez-moi d’amour )

後に、見習士官と再会し、歌手はリュシエンヌ・ボワイエだったことを伝えられました。ジョセフィン・ベーカーと取り違えているということは、こちらも聴いているということでしょう。

 

リュシエンヌ・ボワイエ( Lucienne Boyer )の歌 

youtu.be

ジョセフィン・ベーカー( Josephine Baker )の歌 

youtu.be

www.magictrain.biz

 

武満徹は、何処でシャンソンを聴いたのか ⑤

番外編で、武満徹を取り上げています。

音楽との「決定的な出会い」の場所について。

 本人の文章です。

 

 

「私の中の日本人―ある見習士官など」抜粋

(前半略)

終戦間近い夏の日のことをお話ししたいと思います。

 あの頃私は、埼玉県の陸軍基地で働いていました。勤労のあいまには、軍歌とそのたぐいの歌をむやみと大声で、兵隊と一緒にうたっていました。軍歌の文語体の詞の意味などは殆ど理解してはいなかったのですが。ただ、その頃には、私たちにも戦局の深刻な様相というものが本能的に感じとれるようになっていました。空襲は熾烈になり、私たちは一年も親許を離れ、電気も点かぬ半地下壕のような体裁の宿舎に押しこめられ、日夜、本土決戦に備えての作業に携わっていたのです。山中に新しい自動車路を切り拓くのですが、素手同然の器材と、肉体的に未熟な私たちには、それは途方もなく異常な事態に思われました。それを、おとなが当然のように私たちに強いたことが、いっそう暗い気分に私たちを陥れました。

 そんな環境のなかで、私はある一つの「歌」を聞いたのです。(中略)それは、日本が、うたうことと聞くことを禁じていた「歌」であったのです。基地には一般の将校及び兵のほかに、学業半ばに徴兵された見習士官がいました。その一人が、手回しの蓄音機で、私たちに聴かせたものです。

(中略)

 終戦間近い夜に聞いた「歌」は、ジョセフィン・ベーカーのうたった有名なシャンソンであることを、戦後しばらくしてから知りました。

(後略)

 (初出 『波』1976年12月号)

『音楽の余白から』新潮社(1980年)所収

 

 

武満徹―私の紙ピアノ」抜粋

 戦争中、アメリカ軍の上陸に備えて、日本軍は山奥に基地を建設していました。私は14歳で、同じ年齢の子供たちと一緒にその工事現場で働いていました。皆は東京から疎開して、兵営で暮らしていました。とてもつらい日々でした。当時は西欧的なものをことごとく禁じていました。英語、音楽⋯⋯。禁じられたとなると、我々子供たちにとってそれはしなくてはならないことになり、軍人の鼻先で英語をしゃべったものです。みんなは罰を受け、殴られました。

 でも全部の兵隊が乱暴だったわけではありません。ある日のこと、一人の見習士官が私たちを宿舎のすこし奥まった場所に連れて行きました。そこには蓄音機が一台と数枚のレコードがありました。針がないので、彼は竹を削りました。そして一枚のレコードをかけました。それはフランスのシャンソンで、ジョセフィン・ベーカーの「パルレ・モワ・ダムール」でした。何というショックだったでしょう!初めて私は西洋音楽を聴き、その音楽が存在するということを自覚したのです。

(フランスの雑誌のインタヴュー記事を日本語に翻訳したもの)

『音楽の余白から』新潮社(1980年)所収

 

 

「私の受けた音楽教育」抜粋

 私は戦争中、中学生で陸軍糧秣廠というところに一年半ばかりいました。

 泊まり込みで、勤労動員といっていたのですが、埼玉県の山奥に食糧倉庫、食糧基地が作ってありました。陸軍のもくろみとしては本土決戦に備えた食糧の貯蔵所というわけですが、山の中に道もつくり、種々の食糧品、その中には航空兵のための秘密食糧などもありましたが、それを運んだりしていたのです。

 終戦の年の八月の初めのことでした。そのころ私たちはほとんど兵隊と同じような生活をさせられていました。(中略)その基地に学徒動員で学業半ばに徴集された見習士官の人たちが来ていたわけです。そのひとりがある時、手持ちの蓄音機でわれわれ学生に音楽を聴かせてくれました。

 それは、当時、私たちが接していた音楽というものと、まるで違うものだったのです。(中略)いま思えばフランスのシャンソンで、「パルレ・モア・ダムール」(聞かせてよ、愛のことば)という歌でした。ジョセフィン・ベーカーという人がそれを歌っていましたが、それは私にとっては初めて知った、軍歌とはまるで別の、しかも甘美な音楽でありました。

 それを聴いて、こんな素晴らしい音楽がこの世にあったのかと思いました。そのことが終戦になってからも忘れられなくて、音楽に自分の関心が集中してきました。

 『音楽を呼びさますもの』新潮社(1985年)所収

 

 

武満徹は、何処でシャンソンを聴いたのか ④

番外編で、武満徹を取り上げています。

音楽との「決定的な出会い」の場所について。

 

NHK・映像ファイル あの人に会いたい」という、10分間の番組があります。

番組の説明は、次の通りです。

「あの人に会いたい」はNHKに残る膨大な映像音声資料から、歴史に残る著名な人々の叡知の言葉を今によみがえらせ永久に保存公開する「日本人映像ファイル」を目指す番組です。(番組ホームページより)

 

武満徹さんの回に、勤労動員に触れている部分があります。横浜本牧アメリカ軍キャンプ跡地を娘の眞樹さんと訪れた、1983年の映像です。本牧米軍接収地は、1982年に返還されました。

 

活字化された、新潮文庫からの引用です。『あの人に会いたい』新潮社(2008年)

 

僕がなぜ音楽をやるようになったかというと、それは戦争中なんだけど、陸軍の兵隊さんと同じ所に学生が泊まって、いざ、日本がアメリカと戦争になった時のために、食料を山の中に蓄える基地を作ってた。そこで働いてたのね。僕、その頃、お米1俵なんて担いでたんだからね。毎日そういう生活しててさ。暗い半分地下格子みたいなところで、ある日、終戦の2・3週間前だろうね。ある兵隊が『今日、お前たちにおもしろいものを聴かせてやる』ってさ。手回しの蓄音機で聴かせてくれたわけ、シャンソンを。素晴らしかったんだよね。その頃、そういうものは禁止されてたわけ、敵性音楽は聴いちゃいけないって。それが『パルレ・モア・ダムール』という歌だったと思う。知らないだろう?(口ずさむ)

「あ、知ってる、知ってる」

すごいきれいな⋯⋯。もうね、ゾーッとするぐらい。みんな感動したんだけど、僕は特別感動したのかもしれない。で、もし戦争が終わったら、音楽家になるんだ!と。

「でも、そういう音楽を書かなかったじゃない?(笑い)」

そうなんだよ。それが不思議なんだよね。(笑い)

「なんであんな音楽になっちゃったの?」

だけど、僕はそう思ってるんだよ。僕は、あのシャンソンとおんなじような精神の音楽を書いてるつもりなんだよ。

 「地下格子」は、「地下壕」の誤記かも知れません。

 

親子ならではの、遠慮のない会話です。

地名はありませんが、時期が分かります。

 

  

武満徹は、何処でシャンソンを聴いたのか ③

番外編で、武満徹を取り上げています。

音楽との「決定的な出会い」の場所について。

本人の文章です。

 

 

「暗い河の流れに」

 私は中学生のとき勤労動員で、ほぼ一年にわたって埼玉県の陸軍基地で働いていた。そこはアメリカの本土上陸にそなえて建設された食糧基地であった。私たち学生の宿舎は山奥の木立ちの茂みの中にある、半地下壕のような体裁のものであった。電気もなく、冬は宿舎の土間に焚火(たきび)でもしなければ寒さに耐えられず、夏はまるでむろのように饐(す)えた。私たちは兵隊と同じように、寝具である毛布の整頓が悪いというようなことで下士官から殴打された。時には、理由もなく数キロの山道を軍歌演習をしながら駈けさせられた。

(中略)

 そんな環境のなかで、私はある一つの〈歌〉を聞いた。そして、それは軍歌や当時の他のうたのようにしいられたものではなかった。

 基地には、数人の学業半ばに徴兵された見習士官がいた。真夏の午後、兵隊に命ぜられて数人の学生が黒い雄牛を屠殺した。その事件で、私たちはどうしようもなくたかぶりながらも、なぜか黙ったまま半地下壕の宿舎に閉じこもっていた。夜、一人の見習士官が手回しの蓄音機をさげて学生の宿舎へたずねて来た。彼はうつむきながらなにかを語り、1枚のレコードをかけた。

 それは、私にとってひとつの決定的な出会いであった。その時、私の心は他の学生たちとおなじように、おおうことのできない空洞であり、ただその歌がしみこむにまかせていた。あの時、私たちはけっしてその歌を意志的に聞こうとしていたのではなかった。そして歌はまた、ただ静かに大きな流れのように私たちの肉体へそそがれたのだ。

(中略)

 私があのとき聞いた歌は、絶対にジョセフィン・ベーカーのシャンソンでなければならなかったが、私はそれと出会ったことで、もう昨日の私ではなかったし、その歌もすがたを変えてしまったのだ。

 『樹の鏡、草原の鏡』武満徹 新潮社(1975年)

 

これは、①で草柳大蔵さんも引用していた文章です。

「雄牛を屠殺」の経緯は不明ですが、『白い道』(『宝石』1960年3月号)という小説の題材に使われています。『武満徹の世界』集英社(1997年)に所収。

 

  

武満徹は、何処でシャンソンを聴いたのか ②

番外編で、武満徹を取り上げています。

音楽との「決定的な出会い」の場所について。

対談の資料です。

 

 

徹子の部屋」 (1977年2月4日 放送)

(黒柳)徹子 いつ頃から音楽がお好きになったの?

武満 

僕は、戦争が終わるちょっと前からです。ですから、何年ぐらい前かなあ⋯もう三十数年になりますね。

(中略)

徹子 それで、いつ、今おっしゃったように その音楽を⋯?

武満 

それは、戦争の終わる前一年ほど、中学から勤労動員っていうのに行ってたんです。山ん中に。

徹子 はあ。

武満 

陸軍の食料基地をつくりにですね、埼玉県の奥のほうに。山ん中に、道つくって、倉庫をつくって、その中に缶詰やなんかいっぱい。⋯本土決戦にそなえて、やってたわけですよ。で、そこに学生だけで、兵隊といっしょに住んでて、終戦間近に⋯あの頃 学徒出陣っていうのがあって、学生で兵隊になって来てた人がいるわけですね。その人がある時、僕たちの宿舎にこういう蓄音機⋯蓄音機っていうのは非常に古い言い方だなあ。

徹子 手回しの?

武満 手回しのね。

徹子 ええ、ありました。

武満 竹針のね。

徹子 あ、竹針の。当時、金属がなかったから。 

武満 

そうなんですよ。それで、ある音楽を聴かしてくれたんですね。で、それまでは毎日、僕たちの音楽的な生活っていうのは、だいたい兵隊といっしょに軍歌をうたうとかね。むずかしい、わけのわかんない軍歌ばっかりうたってたわけ。いやでしょうがなかったですけど、でも、その時に、なんかフランスのシャンソンを聴かせてくれたんですね、ジョセフィン・ベーカーの⋯。それは後からわかったんだけれど。それを聴いた時に、音楽っていうのはなんていいもんだろうと思いましたね。

徹子 ふーん。

武満 

それまで音楽なんて、積極的に自分から聴こうと思ったことはなかったから、非常にハイカラに聴こえたしね。なんていうんでしょう、キザっぽくなるけど、非常に自由ってものを感じましたね。

 『徹子の部屋3』黒柳徹子 全国朝日放送株式会社(1978年)

 

 前回の①にもありますが、ジョセフィン・ベーカーではなく、リュシエンヌ・ボワイエでした。

 

 

武満徹 「ほとんど不可能」に挑戦する人

(小学生の頃、伯母の家で従兄弟に、西洋音楽を聴かされた話を受けて)

河合(隼雄) でも、音楽をやりたいと思うようになったのは⋯⋯?

武満

もっともっと後です。戦争も終わりに近いころ。ただ、戦争中も音楽は聴いていました。戦争末期、勤労動員に行っているところで、一年間ぐらい兵隊と一緒に暮らしたことがあるんです。そこの見習士官の学徒出陣の兵隊が、ぼくらに、内緒でシャンソンなんかのレコードを聴かせてくれた。非常に感動しましたね。動員に行ったところで終戦になったんですけど、もう学校へ行く気持ちはなかったし、何としても音楽をやりたいというふうに思った。

 

(当時、軍事教練の点が最低[可]で、進学し会社員になることを諦めていたが)

武満 そう。というより、電気もないような半地下壕みたいな宿舎で内緒で聴かせてくれた音楽にすごく感動した。宿舎の毛布をみんな持ってきて、それにくるまるようにしてね。いま聴いたらひどい音なんでしょうけど、小さい音にじっと耳を傾けた。

河合 その感激、すごくよくわかりますね。

武満

体の中に全部の音がしみ込んでくるみたいで、こんなきれいな音楽が世の中にあるのかと思った。

『あなたが子どもだったころ』対談集 河合隼雄 光村図書(1988年 )

 

 

武満徹は、何処でシャンソンを聴いたのか ①

番外編で、武満徹を取り上げています。

 

「決定的な出会い」があって、武満さんは音楽の道に進んだそうです。

それは、敗戦間際の勤労動員先でシャンソンを聴いたことでした。

このことは、本人も何度か文章にされている、よく知られた逸話です。

では、何処でシャンソンを聴いたのでしょうか。

 

武満徹・音楽創造への旅』立花隆 文藝春秋(2016年)に本人の言葉があります。

 

「中学で授業があったのは一年生のときだけで、あとは終戦まで勤労動員です。陸軍糧秣廠(りょうまつしょう)が本土決戦にそなえて、あちこちに食糧基地を作ったんです。芝浦からはじまって、埼玉県の児玉(こだま)にいって、最後が飯能(はんのう)でした」

 

飯能で聴いた、ということで間違いはないでしょう。

飯能は、とても広い地域です。もう少し場所を絞り込むことは出来るでしょうか。

 

芝浦・児玉・飯能の資料を探してみました。

 

 

陸軍糧秣廠芝浦出張所の記述(『文京区史』 索引 4-623)

 昭和18年に中等学校の修業年限が4年に短縮され、19年に至って、中等学校の上級生徒達に長期動員令が下り、すべての生徒が工場に農場にと、労働者として繰り込まれると、生産活動が中核をしめ、生徒としての本質は吹き飛んでしまった。(中略)

京華(けいか)学園の商業や中学、女学校の上級生たちは、勤労動員で工場に入っていった。日本鋼板・欄木製作所・東京第一陸軍造兵廠・凸版印刷・河端製作所・日立製作所亀有工場・陸軍糧秣廠芝浦出張所などであった。

 『京華学園百年史』(京華学園 1999年)に記述があるかも知れません。

 

 

文藝春秋 (1972年3月号)

「音喰い人種・武満徹草柳大蔵 (抜粋)

武満が京華中学に入ったのは昭和18年である。

翌19年の2年生の夏、「学徒動員令」で八高線の松久(まつひさ)にある陸軍糧秣廠の作業にかり出される。第2904部隊に配属されて、そこで惨憺たる毎日を送るのだが、武満はこのころから、級友の間に「チビのくせに悪づよい奴」という印象を与えている。

勤労動員は1年でおわり、武満たちは3年生の夏、農家の庭先で、"玉音放送"をきく。生徒たちは本気で「松久に立て籠もろう」とか「白虎隊のように自決しよう」と話しあう。武満もその一人である。

 

彼が「音楽家」を志したのは、学徒動員で泥と汗にまみれていた山の中である。中瀬という学徒出身の見習士官がポータブル蓄音機で1枚のシャンソンをかけた。ジョセフィン・ベーカーの歌だった。武満は、そのときの心理的光景を書いている。いまでも光る文章である。

「真夏の午後、兵隊に命ぜられて数人の学生が黒い雄牛を屠殺した。その事件で、私たちはどうしようもなくたかぶりながらも、なぜか黙ったまま半地下壕の宿舎に閉じこもっていた。夜、一人の見習士官が手回しの蓄音機をさげて学生の宿舎へたずねて来た。彼はうつむきながらなにかを語り、1枚のレコードをかけた。それは、私にとってひとつの決定的な出会いであった。(中略)あの時、私たちはけっしてその歌を意志的に聞こうとしていたのではなかった。そして歌はまた、ただ静かに大きな流れのように私たちの肉体へそそがれたのだ」

武満は、その歌がジョセフィン・ベーカーだったとわかったのは、あとになってからだといっている。これが音との"出会い"というものだろう。

( 文中で引用されているのは「暗い河の流れに」)

 

終戦時の「松久」は、「そこに行って」という意味かも知れません。

松久駅の所在地は、当時の児玉郡松久村でした(現在は美里町)。

また、レコードの歌手は、ジョセフィン・ベーカーではなく、リュシエンヌ・ボワイエということが明らかになっています。

この草柳大蔵さんの記事は、広範な証言に基づいています。

単行本・文庫本になっています。参照したのは『実力者の条件』(文春文庫1985年)。

 

武満徹 SONGS ⑤ 歌詞

番外編で、武満徹の『SONGS』を取り上げました(2021/4/7~10)。

外国語の歌詞の曲が3つありました。日本語訳を補足します。

 

 

「雪」瀬木慎一・作詞/フランス語)

雪がふっていた

おとこがはなれていったとき

おんなはまた泣き出す

白い夜のあとの

もうひとつの白い夜

 

 

「素晴らしい悪女」永田文夫・作詞/スペイン語(2021/5/22追記)

幸せ求めて私は泣きに泣いていた

常夏の太陽に満ちた

わがプエルトリコの大地よ

今はお前の栄光もすでに失われてしまった

心よ、心よ、私にうたっておくれ

そして私に過ぎた日の自由を与えておくれ 

 

 

「ワルツ」(岩淵達治・作詞/ドイツ語)

まなかいに見る

君のかんばせ

だがもう君だとは

見分けられない

君はどこにいってしまった

君はどこに

昨日までの君は

 

むかし霧の中で君を見た

曇りガラスのむこうにいるようだった

君はとても近くにいたのに

それでいてとても遠いのだった。

 

むかし月光を浴びた

君を見たとき

君はガラスの肌にすっぽり包まれたようだった。

君は僕の好きな君だったが

それでいてどこか違うのだった。

 

あれは春のことだった。

僕は固く信じていた。

君はぼくのもの

ぼくらの心は

ひとつだと、心に固く。

 

昔 庭先で

別れを告げても

それでも君をあんなに近く感じた

いつか別れる定めであったにせよ

長いことぼくは忘れていたのだ

ある日突然君が他人になることがあるということを

 

今日の君の肌はまた硬く生気がなくなった

まるで他人の顔の面をつけたように

 

あれは春のことだった

ぼくは固く信じていた

君はぼくのもの

ぼくらの心は

ひとつだと、心に固く。

 

昔 庭先で

別れを告げた時

それでも君をあんなに近く感じた。

たとえ別れる定めであったにせよ。

 

 

まなかいに見る

君のかんばせ

だがもう君だとは

見分けられない。

 

君はどこにいってしまった

君はどこに。

昨日までの君は。

 

 

「雪」・「ワルツ」の歌詞は、CD『翼』(石川セリ)のライナーノートから引用。

「素晴らしい悪女」の歌詞は、『SONGS』(日本ショット 2006)から引用。 

 

 

 「雪(La Neige)」

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「素晴らしい悪女」

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「ワルツ」

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