江部賢一ファンクラブ(私設)

ギターの名編曲者、江部賢一さんの仕事を、記録します。

武満徹は、何処でシャンソンを聴いたのか ①

番外編で、武満徹を取り上げています。

 

「決定的な出会い」があって、武満さんは音楽の道に進んだそうです。

それは、敗戦間際の勤労動員先でシャンソンを聴いたことでした。

このことは、本人も何度か文章にされている、よく知られた逸話です。

では、何処でシャンソンを聴いたのでしょうか。

 

武満徹・音楽創造への旅』立花隆 文藝春秋(2016年)に本人の言葉があります。

 

「中学で授業があったのは一年生のときだけで、あとは終戦まで勤労動員です。陸軍糧秣廠(りょうまつしょう)が本土決戦にそなえて、あちこちに食糧基地を作ったんです。芝浦からはじまって、埼玉県の児玉(こだま)にいって、最後が飯能(はんのう)でした」

 

飯能で聴いた、ということで間違いはないでしょう。

飯能は、とても広い地域です。もう少し場所を絞り込むことは出来るでしょうか。

 

芝浦・児玉・飯能の資料を探してみました。

 

 

陸軍糧秣廠芝浦出張所の記述(『文京区史』 索引 4-623)

 昭和18年に中等学校の修業年限が4年に短縮され、19年に至って、中等学校の上級生徒達に長期動員令が下り、すべての生徒が工場に農場にと、労働者として繰り込まれると、生産活動が中核をしめ、生徒としての本質は吹き飛んでしまった。(中略)

京華(けいか)学園の商業や中学、女学校の上級生たちは、勤労動員で工場に入っていった。日本鋼板・欄木製作所・東京第一陸軍造兵廠・凸版印刷・河端製作所・日立製作所亀有工場・陸軍糧秣廠芝浦出張所などであった。

 『京華学園百年史』(京華学園 1999年)に記述があるかも知れません。

 

 

文藝春秋 (1972年3月号)

「音喰い人種・武満徹草柳大蔵 (抜粋)

武満が京華中学に入ったのは昭和18年である。

翌19年の2年生の夏、「学徒動員令」で八高線の松久(まつひさ)にある陸軍糧秣廠の作業にかり出される。第2904部隊に配属されて、そこで惨憺たる毎日を送るのだが、武満はこのころから、級友の間に「チビのくせに悪づよい奴」という印象を与えている。

勤労動員は1年でおわり、武満たちは3年生の夏、農家の庭先で、"玉音放送"をきく。生徒たちは本気で「松久に立て籠もろう」とか「白虎隊のように自決しよう」と話しあう。武満もその一人である。

 

彼が「音楽家」を志したのは、学徒動員で泥と汗にまみれていた山の中である。中瀬という学徒出身の見習士官がポータブル蓄音機で1枚のシャンソンをかけた。ジョセフィン・ベーカーの歌だった。武満は、そのときの心理的光景を書いている。いまでも光る文章である。

「真夏の午後、兵隊に命ぜられて数人の学生が黒い雄牛を屠殺した。その事件で、私たちはどうしようもなくたかぶりながらも、なぜか黙ったまま半地下壕の宿舎に閉じこもっていた。夜、一人の見習士官が手回しの蓄音機をさげて学生の宿舎へたずねて来た。彼はうつむきながらなにかを語り、1枚のレコードをかけた。それは、私にとってひとつの決定的な出会いであった。(中略)あの時、私たちはけっしてその歌を意志的に聞こうとしていたのではなかった。そして歌はまた、ただ静かに大きな流れのように私たちの肉体へそそがれたのだ」

武満は、その歌がジョセフィン・ベーカーだったとわかったのは、あとになってからだといっている。これが音との"出会い"というものだろう。

( 文中で引用されているのは「暗い河の流れに」)

 

終戦時の「松久」は、「そこに行って」という意味かも知れません。

松久駅の所在地は、当時の児玉郡松久村でした(現在は美里町)。

また、レコードの歌手は、ジョセフィン・ベーカーではなく、リュシエンヌ・ボワイエということが明らかになっています。

この草柳大蔵さんの記事は、広範な証言に基づいています。

単行本・文庫本になっています。参照したのは『実力者の条件』(文春文庫1985年)。