番外編で、武満徹を取り上げています。
音楽との「決定的な出会い」の場所について。
対談の資料です。
「徹子の部屋」 (1977年2月4日 放送)
(黒柳)徹子 いつ頃から音楽がお好きになったの?
武満
僕は、戦争が終わるちょっと前からです。ですから、何年ぐらい前かなあ⋯もう三十数年になりますね。
(中略)
徹子 それで、いつ、今おっしゃったように その音楽を⋯?
武満
それは、戦争の終わる前一年ほど、中学から勤労動員っていうのに行ってたんです。山ん中に。
徹子 はあ。
武満
陸軍の食料基地をつくりにですね、埼玉県の奥のほうに。山ん中に、道つくって、倉庫をつくって、その中に缶詰やなんかいっぱい。⋯本土決戦にそなえて、やってたわけですよ。で、そこに学生だけで、兵隊といっしょに住んでて、終戦間近に⋯あの頃 学徒出陣っていうのがあって、学生で兵隊になって来てた人がいるわけですね。その人がある時、僕たちの宿舎にこういう蓄音機⋯蓄音機っていうのは非常に古い言い方だなあ。
徹子 手回しの?
武満 手回しのね。
徹子 ええ、ありました。
武満 竹針のね。
徹子 あ、竹針の。当時、金属がなかったから。
武満
そうなんですよ。それで、ある音楽を聴かしてくれたんですね。で、それまでは毎日、僕たちの音楽的な生活っていうのは、だいたい兵隊といっしょに軍歌をうたうとかね。むずかしい、わけのわかんない軍歌ばっかりうたってたわけ。いやでしょうがなかったですけど、でも、その時に、なんかフランスのシャンソンを聴かせてくれたんですね、ジョセフィン・ベーカーの⋯。それは後からわかったんだけれど。それを聴いた時に、音楽っていうのはなんていいもんだろうと思いましたね。
徹子 ふーん。
武満
それまで音楽なんて、積極的に自分から聴こうと思ったことはなかったから、非常にハイカラに聴こえたしね。なんていうんでしょう、キザっぽくなるけど、非常に自由ってものを感じましたね。
『徹子の部屋3』黒柳徹子 全国朝日放送株式会社(1978年)
前回の①にもありますが、ジョセフィン・ベーカーではなく、リュシエンヌ・ボワイエでした。
武満徹 「ほとんど不可能」に挑戦する人
(小学生の頃、伯母の家で従兄弟に、西洋音楽を聴かされた話を受けて)
河合(隼雄) でも、音楽をやりたいと思うようになったのは⋯⋯?
武満
もっともっと後です。戦争も終わりに近いころ。ただ、戦争中も音楽は聴いていました。戦争末期、勤労動員に行っているところで、一年間ぐらい兵隊と一緒に暮らしたことがあるんです。そこの見習士官の学徒出陣の兵隊が、ぼくらに、内緒でシャンソンなんかのレコードを聴かせてくれた。非常に感動しましたね。動員に行ったところで終戦になったんですけど、もう学校へ行く気持ちはなかったし、何としても音楽をやりたいというふうに思った。
(当時、軍事教練の点が最低[可]で、進学し会社員になることを諦めていたが)
武満 そう。というより、電気もないような半地下壕みたいな宿舎で内緒で聴かせてくれた音楽にすごく感動した。宿舎の毛布をみんな持ってきて、それにくるまるようにしてね。いま聴いたらひどい音なんでしょうけど、小さい音にじっと耳を傾けた。
河合 その感激、すごくよくわかりますね。
武満
体の中に全部の音がしみ込んでくるみたいで、こんなきれいな音楽が世の中にあるのかと思った。
『あなたが子どもだったころ』対談集 河合隼雄 光村図書(1988年 )